この素晴らしき世界の、名もなき日々(6)   今の仕事が嫌だ Written Unforgettable Memories

「嫌でたまらない、今の仕事が…」

唐突に彼女は話し始めた。まだ出会って二回目だった。長年看護師として働いてきて、現在はがんの緩和ケア施設の看護師長をしていると紹介されたときから、きっと周囲から信頼を集めている人だろうと想像していた。何だか気が合い再会を約束していたのだが、ほどなく週末を利用して別の友達と関東から自分の車で訪ねてきてくれたのだった。4、5年ほど前の事だ。私はその日の朝、知り合いに分けてもらった蕎麦粉でクレープを初めて作り、自分でも意外にうまくできたと調子に乗って彼女たちに振る舞ったことを覚えている。

美味しそうに食べてくれた後に、突然彼女は切り出した。
「ごめんなさい、どうしても聞いて欲しいの」
自分の心の内を曝け出すように、彼女は仕事の悩みを話し始めたのだった。病院の経営者の方針に、患者への配慮が感じられず、自分の仕事が虚しくなってきたのだという。その方針を聞いたときの冷たい言葉が彼女の脳裡から離れない様子だった。

私は彼女の友だちと静かに聞いていた。かつて勤め人だった自分にも確かにあった砂を噛むような思いをたどり、彼女の気持ちと同期させた。生きていく中での人との出会いの中には良いものばかりではなく、宿命的に対立せざるを得ないことや我慢を強いられる状況が少なからず訪れる。もう遠い日の出来事だが私はどうやって脱したのだったか、とその時ふと思ったのだった。

思えば、私はどんなときも何かしら書いてきた。メモ魔でもあるのだが、それだけではないような気がする。特に仕事でもやもやする気持ちを、何か言葉で表現しないことには落ち着かない性分なのだ。書いているうちに発想が変わり、整っていくのだ。今でもそのノートの山は分身のようで大半は捨てられないでいる。

そこで、こんなことを彼女に話していた。「その気持ちの、それとは逆の、あなたに働く喜びをくれた出来事を書き出してみない?」意味がわからないというように彼女は私を見つめた。

「あなたにも看護師になってよかったと思ったことがたくさんあったでしょう?」

「あります、もちろん、あります。たくさん、あります」

「それを書いて、抱きしめて、忘れないようにしない?」

例えば、と彼女は堰を切ったように話し始めた。

「がんの末期の患者さんで、痛みを和らげるだけの治療しかできなかったのだけど、毎朝、その人の手を温めに行ったのです。両手で彼女の手を包んで、マッサージして、他愛もない会話をする、それだけなんです。でもその人は、今の私の楽しみは、明日もようこさんが来てくれる、と思うひとときなんです。と、私の名前を呼んでくれたのです」

「それから、こんな事もあったわ。嘔吐してしまった患者さんの背中をさすっていたの。ようやくおさまったとき、私の手はマジシャンだって言ってくれた人のこと。こうして思い出してみると、私の仕事は手の仕事なのね。手当てっていうものね」

彼女の瞳が輝きを取り戻した。私は彼女に、自分が使おうと思って買ったばかりの赤いノートをプレゼントした。「どうか、あなたの仕事の喜びを感じた一瞬を、誰にも邪魔されない自分だけの思いを、このノートに折々に紡いで」と。そのノートの赤はエネルギーをくれるような緋色だ。

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書いた人/櫻井 田絵子
人財醸し家・ファシリテーター
山形県鶴岡市在住。コワーキング・キッチン「花蓮」主宰、人財育成「オフィス櫻井」代表 キャリアコンサルタント、フードコーディネーター、経営学修士。2022年エッセイ集「月のような山―あのころに戻る時間」を上梓(Amazonほか)

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