この素晴らしき世界の、名もなき日々(1) おばさんの指輪

おばさんにずっと会いたいと思っていた。

東京でのわたしのかつての暮らしは、このおばさんが近くに住んでいるという安心感だけでどれほど助けられたかわからない。だから、山形にUターンした今でも何だか無性に会いたい気持ちになるのだ。

一年半ぶりのその笑顔は変わらなかった。おばさんが住んでいるマンションの部屋もいつものようにさっぱりと片付けられていた。それでも八十歳を過ぎてからの暮らしは、思うようにいかないことや弱くなっていく自分自身を受け容れていくことなのかもしれない、とふと思った。一緒にランチを食べようと持ってきた野菜を刻んで、白いホーローの鍋に入れようとしたときに、焦げ付いてしまった鍋底を見てそう感じた。おばさんが大切に使っていたものだったからだ。

「最近はさっぱり料理をしなくなってね」と、おばさんはわたしの作った炒め物を何度も美味しいと言って喜んでくれた。取り止めもないわたしの話を聞き返しては振り出しに戻る会話になっても、おばさんの真っ直ぐな瞳がわたしにはまるで童女のように映ったのだった。

家族で営む街の本屋を始めたのはおばさんが二十代の頃だ。亡くなったおじさんの強い希望で始まったその本屋は数年前に五十周年を迎え、大型書店にはない味わいのある雰囲気を今も受け継いでいる。

私が初めて出版したエッセイ本の話になると「何度も読み返したわ。大好きよ。だからお友達にプレゼントで贈っているの」と微笑んだ。

「本屋のすぐ近くに文房具屋さんがあるでしょう?本にちょうどいいサイズの封筒を売っているから、この間も本を二冊買ってきて、そこでね、『ここで宛名を書いていいかしら』と、お願いして書かせてもらって、そのお店の前のポストに投函するのよ」

「まあ、お友達にプレゼントで送ってあげているの?本当にありがとうね」

「そう言えばこの間、何だか不思議なことがあったのよ」

「なあに?」

「そこで、宛名を書いていたの。文房具屋さんのレジから離れて、ちょっと空いている場所で書いていたら、後ろから『◯◯書店の方ですよね』って聞く女の人がいて、『はい』と振り向いたの。そしたら、急にその女の人、自分の指から指輪を引き抜いて、私の指にぎゅっとその指輪を嵌めて、そのまま立ち去ったのよ」

「え?」

「どういう人か、どうしてなのかわからないんだけど、ねぇ、どうしてだと思う?でもね、お店に行くときはね、その指輪をすることにしたの」

玄関近くの棚の上に、ビーズよりも少し大きな黒い石をつないだ指輪が艶めいて光っていた。わたしはその指輪を嵌めてくれた女の人の気持ちを勝手に想像してみた。

この街に住み、駅から自宅までの間におばさんの本屋があり、その人にとって仕事終わりの句読点のような場所だったのだろう。きっと疲れ果てて立ち寄った日もあったに違いない。その本屋の書棚を見ながら五分も過ごすと、時代の今を感じたり、タイトルを見るだけで惹きつけられるような素敵な何かに出会えたのだろう。そんな店内で、おばさんがレジで接客していた頃はいつも「今日は雨がずっと降って大変でしたよね」、「うふふ、私もこの本好きなんです」と、何か一言、お客さんに声をかけるのだ。

きっとその女の人はこう思ったのだろう。「お店番をしなくなったこの人にまた会えるとは限らない。今ここで、何か」

身につけていたものを外し、言葉よりも先に身体が動いて、説明するのも無粋なこととそのまま立ち去ったのだろうか。

「八十歳までレジに立つの」と言っていたおばさんは先月八十四歳になった。もうお店に立つことはない。「今はね、レジで本のカバーをするための紙に折り目をつけて持っていくのよ。そしてお店をゆっくりと一周するくらいが日課だわ」

いとこがおばさんの健康のためにお店まで歩いてくるようにお願いした小さな日課を守っているのだ。おばさんが店内を歩くと、近所のお馴染みのお客様が気づいて懐かしさのあまり声をかけてくださるのだという。

お客様への一言はおばさんの日常だった。季節の挨拶や声かけと呼ぶには大袈裟な、彼女らしい自然なことで、意味も理由も問うことなく日々は流れたのだろう。けれども五十年という歳月の中で、おばさんが繰り返してきたその小さな一言に救われてきた人はきっと少なくないだろう。

指輪を嵌めて立ち去った女の人の本当の気持ちはわからない。でもわたしはそれをこの素晴らしき世界の人の愛と呼びたい。愛の形はそれぞれで、言葉にならない小さな感謝もきっとそうだ。愛はいつも衝動なのだから。

書いた人/櫻井 田絵子 
人財醸し家・ファシリテーター
山形県鶴岡市在住。コワーキング・キッチン「花蓮」主宰、人財育成「オフィス櫻井」代表。
キャリアコンサルタント、フードコーディネーター、経営学修士。
2022年8月エッセイ「月のような山―あのころに戻る時間」を上梓(Amazonほか)

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