「今日で人生が終わるかもしれないから、時間を大切にすごそう」
確かにそうである。異論なし。
この世に「絶対」はないのかもしれないけど、今日もまた棺桶に入る日が確実に一日近づいたはずだ。
スティーブ・ジョブズが毎朝鏡に映る自分に、似たようなことを語りかけていたと聞いたことがあるが、残念なことに私が思った最初の印象は、「俺には無理」。何が無理かって言うと、3日坊主確定であるため、そう思い続けるのが無理。3日続けられたらマシかもしれない。だからしっかりと目標設定をしてそこに向かって確実に何かを習慣化させている人をものすごく尊敬する。
そう。良くも悪くも人間って習慣の生き物だと最近特に感じる。自分ができている習慣は、仕事上仕方のないことか、苦にならない好きなことくらい。死ぬことを意識して生きるなんてすごく難しい。あ、やめたい習慣だったらいくらでも出てきそう…。
そもそも私の死生観はちょっとおかしくて、死に対する負のイメージがほとんどない。同時に、生に対する執着も人より薄いと思う。私が27歳のときに父がガンで亡くなった際も、今にも崩れてしまいそうな母をなんとか支えなきゃと思い、口から出たセリフが、「父さんが死んで悲しいのは僕たちだよね。父さんはこれで楽になったのだから悲しまなくていいんだよ…」。今、文章にして書くとなんとも浅はか、もしくは感情をしっかりと消化できていないとカウンセリングされそう。
私が大人になってから採用している、人生における設定に「人間万事塞翁が馬」というものがある。簡単に言うと、「必ず最後は幸せにいきつく」と捉えているが、もう一つの採用事項である「輪廻転生」と合わせて考えると、死さえも幸せへの道筋と考えないといけない。壮大なステップアップである。
皆さんは思ったことないのかな? もう今世はこれでアガって、次に行こうみたいな…。かっこよくいうと前向きな死。そんなことを言っていても、いざ死に直面したときに同じく思えるかはわからない。ただ、とにかく単なる終わりでなく、何かの途中と考えると悲しい出来事と括れないのである。
と、ここまで目を通していただくと私が変なやつだということがバレたかと思うが、死について深く考えたことがない方から見れば、余計に変に見えるのだろう。優等生的に書くならば、我々は必ず死ぬのだから、そこを不安に思っても仕方がないし、だからこそ「いかに今生をしっかり生き抜くか」を意識しようと思う、となるだろうか。そして、奇異の目で見るあなたをさらに沼に引きずり込むことになるが、今まで頭の中で漠然と考えていたことをこのように言語化すると見えてくることもある。
「おわりのはじまり」と「はじまりのおわり」だ。
終わりという言葉がちょっと強いためになんとなくどっちも終わりのことのように思ってきたが、終わりの始まりは「生」であり、始まりの終わりは「死」と考えることもできる。そして輪廻転生はいわば、はじまりとおわりが繰り返すということなのだろうか。いや、始まりも終わりもないし、そもそも始まってもいないし終わってもいないのだろうか・・・。申し訳ない。全く見えていなかった。私のほうが沼にはまっていた。誰か沼から私を引き上げてほしい。
このあたりは量子の世界を紐解くと、ますます頭がこんがらがる。なぜなら、この最新科学によると、常に「今」しかなくて、「今」が連続しているだけだというのだ。過去も未来もない、つまり時間軸というものがないというのだ。だが、実生活で24時間これを意識することは不可能だ。「今」には幅があるからだ。そして、感情というものが我々の心を支配していると、「今」へのフォーカスは尚のこと難しくなってくる。
さらにこの感情というものが厄介だ。嬉しい楽しい感情は存分に味わいたいが、悲しい辛い感情はできれば出てこないでほしい。支配の力が前者に比べて100倍くらい強いせいでネガティブと称されるのが常だ。ただこれも残念なことに、後者だけないものとするのはできないらしく、むしろないものにしてはいけないそうだ。そして多くのメンターが言うように、後者も前者と同様にしっかり味わう必要があるらしい。
人生において達成したいことの一つに、ネガティブな感情が沸き起こったときにいかに短時間でポジティブに変換できるか、というものがある。最初はネガポジを無理やりやっていた感があったが、「人間万事塞翁が馬」をずっと意識し続けていると、徐々に自然と自動変換ができるようになってきた。今の私は、他人のことになるとタイムラグなく自動変換が可能な状態にまでなった。メンターの言うことを素直に聞いて、今後はネガもないものとせず、短時間でしっかり味わうことにしよう。最初は違和感があってストレスがかかっても、これも習慣だ。「普通」に格上げしていけばいい。
結局、「習慣」にするには、好きなことを自然にやる以外は、最初はストレスがかかるから、習慣化させる仕組みを導入しないといけないということだ。私ができない理由は、習慣化させる仕組みに取り組む習慣がないが故に、面倒くささのために踏み出そうともしていないからだ。子どもたちに、今日できることは今日やろうよと言っている自分が恥ずかしい。だが、昨日までやっていた日常という習慣を変えるパワーは相当だと思う。努力や根性で太刀打ちできないならどうすればよいのか。
一流企業の取り組みを覗いてみよう。かのGoogleが導入した取り組みが、バディ制である。協力し合うと見せかけて、監視し合うと言った方が逆に納得できる。ホウレンソウ(報連相)含めバディの目があると、無理矢理にでも習慣化することができる。ここのストレスやいかにと思うかもしれないが、カッチカチのPDCAとかにする必要なし。ただの報告だけでも報告をする習慣さえあれば、取り組まないといけない「本質の引き出し」を何度も少しだけ開けかけるので、いつか習慣サイクルに昇華するかもしれないからだ。
ここまできて、ようやくタイトルにあるサスティナブルな話にたどり着く(本当はサステイナブルらしいがなんか嫌なのでこう呼んでいる)。持続可能な社会ってなんだって考えたときに、理想はたくさん持つべきだし、理想や空想・妄想なくして現実化はないのだけれど、そのあとどうやって現実化させるかの部分に、この習慣というハードルが立ち塞がるのだと思う。ここで例のバディ制だ。本題のアンサーとしてこう宣言する。サスティナブルはバディだ、と。バディ制の先にサスティナブルが達成されると考える。
社会という構造がバディ制の集合体とも言えるが、さてここ数年の世界情勢や日本の中を見たとき、皆さんはどうお考えだろうか。分断や孤立という言葉がクローズアップされたが、強烈な「個」を3年近く経験し、誰かの存在の有り難さに気づけた人も多いと思う。ベクトルが一見下がっていたかのようなこの世界も、実はバディの尊さに気づくために必要な3年間だったのではないだろうか。そう思えば、人間万事塞翁が馬の理想に近づくことができ、腑に落ちるわけである。これは無理矢理なネガポジなのだろうか。自分自身に対しての自動変換がうまく機能するように、引き続きこの習慣を継続していこうと思う。そして願わくば、自分以外のバディの力を借りながらも、自分の内なる「自分というバディ」との対話も大切にしたいと思う。このことが習慣化されれば、希薄に見える私の死生観にも彩りがつくかもしれない。
さて、明日起きたときに私の私というバディは何を問いかけてくるだろうか。
書いた人/山田和宏
医)社団健生会理事長。歯科医師として20年活動し、2019年に医療機関と別にGenom.Dという若返りや健康長寿の実現を目指した健康サロンを開設。量子の分野に着目し、2021年から「睡眠LABO」の形でサービスを提供。https://www.genom-d.com/
山田先生 今後の連載楽しみにしています
とてもユニークな視点で サスティナブルを語っていただき 興味深く拝見しました
いつか時間制限なく この辺を語り合う
リアルイベント企画したいです
その際は ぜひ お付き合いくださいネ
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発行人 宮澤洋子